教行証について

仏法には必ず教行証が具足してなくてはならない。教とは衆生を導く教へであり、行とはそれを実行してゆく事であり、証とはその結果幸福になつてゆく事である。
ところがその中の根本である教が衆生の状態(機根)に合わなければ、当然行証は無い。
例えば、教とは薬の如きもので、腹痛に風邪薬を飲ませるようなものである。
大聖人様が教行証御書に「今末法に入りては教のみ有つて行証なく、在世結縁の者一人も無し、」と仰られたのはその事である。
即ち末法の衆生と、正像二千年間の衆生とは、その機根が全然違うのである。
日本の歴史を見ても、平安朝と鎌倉以降の様相は一変している。如何に釈迦の教へが有つても、それを実行して救われないのである。
そこに末法相応の教行証が必要なのである。前述の御書の次に「此の時は濁悪たる当世の逆謗の二人に初めて本門の肝心寿量品の南無妙法蓮華経を以て下種と為す」と仰せられて明確に末法の教行証を御示しなされている。
末法下種の衆生には、大聖人様が御顕し遊ばされた御本尊様を信行してゆく事により、実生活に利益の証拠が現われるのである。

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