仮コメント置き場

このページのトチロ~さんという方、啓吾さんから細かく質問されたら逆ギレして、コメント非表示にしちゃいました。自分の返信だけ出しておいて、相手に反論させなくしたっぽいです。

誤解だったようです。
コメントが投稿されなかった原因は分かりませんが、一応、折り合いはついたみたいなので、このページのタイトルを変えます。
誤解に気がつかず誤ったタイトルで誹謗しまして、申し訳ありませんでした。Youtubeの件と同じ展開かと思いました。

ちなみに非表示にされている投稿できなかった返信は、いまのところ下記2つ1つ、との事。表示されたらこの記事も削除しますね。 (啓吾さんがこのページにコメントくださっているので、このまま残しておきます。用が済んだらこのページを削除します。)

啓吾より:

あれ…?冒頭は次の書き出しではありませんか?

「御使の申候を承候。是の所労難儀のよし聞候。いそき療治をいたされ候て可有御参詣候。」

蛇足のところなので、特にこだわりませんが…

日蓮正宗の基本が何かと言われますと、他門との違いを挙げるのが一番分かりやすいと思います。

日蓮正宗では、本門の本尊を一大秘法となし、本門の戒壇と、本門の題目で三大秘法ですね。言われるまでもないと思います。『日蓮正宗入門』にもそうあると思います。

大事なのは、他門では一大秘法を本門の題目、としているところかと思いますが、なぜそう言うかと言うと、彼らには何を「本門の本尊」とするかが定められないから、ですよね。
三大秘法の意義が備わっている「本門の本尊」は、「本門戒壇の大御本尊」のみです。

この理解に立っていると、貴殿のおっしゃる論は読めば読むほど、理解に苦しみます。おそらくどこか、前提が間違っているのではと、思わざるを得ません。

日蓮正宗の基本を蔑ろにしているのは、どちらでしょうか?威丈高に強がるのは、誰にでも出来ると思います。

その前に、理路整然とご説明願いたいものです。

「仮コメント置き場」への2件のフィードバック

  1. トチロ~ より:
    2023年3月2日 19:01
    所住の処を義の戒壇と申すのは「皆応起塔」という「事」に対する「義」であります。

    故に日寛上人は広宣流布後の戒壇、すなわち御遺命の戒壇を「所住の処」との表現をされていないはずですよ。

    必ず広布後の戒壇に関しては一期弘法付嘱書や三大秘法抄の文をもって表現せられます。

    もし私が間違っていると主張するならば、広布後の戒壇を「所住の処」と表現されている日寛上人の御指南を上げてください。

    これに対してあちらのサイトでは「返信」が出来なくなっているのですが、、、

    このトチロ~さんの言い方は詭弁です。私は「安置」「所住」に広布前後の区別は無いのでは?と聞いているので、
    トチロ~さんの定義が正しいのならば、
    広宣流布後の戒壇には「安置」すべしという表現が日寛上人の仰せにあるはずです。
    トチロ~さんはそれを示せば良いだけです。

  2. トチロ~ より:
    2023年3月2日 19:31
    先ずは…、冒頭にはそのようなお言葉はございません。啓吾さんは御書をお持ちですか?持っていたうえでこのような反論を為されていますか?

    「いそき療治をいたされ候て可有御参詣候」が現代語訳できないのでしょうか…
    ちなみに、この御文が冒頭に無いのは、大石寺版の『平成新編』だけです。宗門の『昭和新定』『御書全集』、また他門ですが『昭和定本』ではこの御文は冒頭にあります。これによって、トチロ~さんが『平成新編』のみ参照しているというのが分かります。

    もしかして浅井さんのお話だけを聴いて私を論破しようと思ってはいませんか?

    こういう物言いは自身の無智をさらけ出すだけなので、おやめになった方が良いかと思います。

    悪いことは言いませんから、とりあえず揃えられるものは全て揃えた上で、そして何度も何度も繰り返し読み込んでから出直してください。浅井さんのお話だけで斬れるほど私は甘くはありませんよ。

    そっくりそのまま返した方が親切でしょうか…

    それでは本題に入ります。

    日蓮正宗に於いては戒壇の大御本尊様以外の血脈の通った御本尊様の住処は「義の戒壇」となります。これは歴代御法主上人書写の御本尊も大聖人の顕された御本尊も同じです。これは戒壇の大御本尊を根源とし、その他を枝流とする捌きによるものです。

    「日蓮正宗に於いては」と、日蓮正宗を代表する御気概の様子…でもこれ、日蓮宗のような主張をしています。
    敢えて「日蓮正宗」の資料を引かせて頂きます(『』での強調箇所は私がつけました)。

    『日蓮正宗入門』より
    ・本門の本尊(p.131~)
     日蓮大聖人は、久遠本仏としての御内証を『一幅の』大曼荼羅本尊として(中略)この大曼荼羅こそ(中略)『最勝最尊の』本尊であり、これを「本門の本尊」と称します。(中略)
     大聖人は多くの曼荼羅本尊を顕されていますが、なかでも弘安二年十月十二日御図顕の大曼荼羅こそ、まさしく究竟中の究竟、大聖人出世の本懐なのです。(中略)この御本尊には、三大秘法の意義が備わっており、全世界の民衆はこの御本尊によって『のみ』、真の即身成仏の大利益を享受していくことができるのです。
    ・本門の戒壇(p.132~)
     本門の戒壇とは、『本門の本尊』を安置して信心修行をするところをいいます。

    「本門の本尊」は「本門戒壇の大御本尊」のみ、「一幅」であり「最勝最尊」(「最」は「第一」の意味あり)であると書いてあります。「血脈が通っていれば本門の本尊だ」というならば、佐渡始顕はいかに?

    御在世の信徒の方々が成仏できるのは、「人の本尊」が間近に在しますからでしょう。「いそぎ来臨あるべし」はそういう意味ですよね…
    どう斜めに読んだら「戒壇」が出てくるのか、不思議です。
    法律用語で言ったら「法の不遡及」に反することをやっているのだと思います(いわゆる遡及法ということ)が、その不自然さに気がついていないご様子です。

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